世界遺産へ…
08月24日
ご無沙汰しております。ブログを書き忘れていました。
2週間ぶりです。お留守の間に、パラグライダーも飛びましたし、今週の放送では世界遺産に行ってきました。
世界遺産というのは萩反射炉のことです。世界遺産なりたて!僕は萩出身なので存在は知っていましたが、わざわざ足を運ぶこともなく、反射炉といっても何のことやらわかりませんでした。しかし今回、反射炉の仕組みから、いかに存在価値があるものなのかを理解することができました。
今日は反射炉のご紹介をいたします!パフパフ!!
まず、反射炉が萩に作られたのは1856年のこと。萩藩は鉄製の大砲を作る必要に駆られてこの反射炉をこしらえました。
(今年から歴史番組のディレクターも兼務しておりますので、少しだけ勉強しております。えへん。)
まず反射炉築造の3年前。1853年にペリーが浦賀にやってきますが、これが日本のターニングポイントになります。
江戸時代は約250年間、外国と交流することなく、国内も大きな戦争もなく平和にやってきていました。各地で様々な文化が咲き乱れ、人々はそれぞれに人生を謳歌していたことでしょう。
そんなところにやってきたペリーはこう言うのです。
「きみらいつまで閉じこもってんねん。俺らと交流しようぜ!」
さぞかし当時の日本人はビビったことでしょう。
いうなれば部屋に閉じこもって、ポテチが主食でゲーム三昧で過ごしていたニート生活中のA君のもとに、隣の中学校のがたいのいいBくんがとつぜん原チャリで押しかけてきて、部屋をバットでつんつんしながら
「おい!A君よぉ!いつまでそこにおんねん。野球しようぜ!俺らのチームに入らねえか!」
これにはA君 ビビるわけです。
「ちょ、ちょ、ちょ、ま、待ってくれよう。」
日本はこの事件以後、国内は乱れに乱れます。
「なんで野球チームになんて入らないといけないのだ!B君なんかやっつけてしまえ!」
「とてもB君には腕力では敵わないから最初は練習だけでも野球チームに参加しようか…。」
様々な意見が飛び交い、平和だった国内にあやしい空気が流れるのです。
そんな中で、薩長をはじめとする雄藩に、幕府や朝廷などなど、様々な人物・組織と絡み合い、それぞれの役割を果たしながら明治維新を迎えることになるのですが、結実するのは10数年あとの話。
反射炉ができたのは混迷なりたての時代です。
そりゃあそれまで平和で大砲なんて必要なかったわけですから、あせりますようね。
切羽詰まった萩藩は、佐賀藩の反射炉をスケッチで描いてきて、どうにかこうにか反射炉(らしきもの)を作り上げたのです。
どんだけあせっていたのでしょう。スケッチだけでそんなんできんでしょうよ。
今でいえば会社のIT化を目指す中小企業のようなものかもしれません。
社長 「よっしゃ、うちもIT化の波に乗り遅れていてはいけない!よし!お前!佐賀の会社に行ってパソコンを教えてもらってこい!」
部下 「行ってきました。詳しくは教えてもらえなかったので、パソコンのスケッチを描いてきました。これでうちもITバブルの波にのってウハウハですね。」
社長 「でかした!よし、お前そのスケッチでパソコンを作れ!!」
…的な。
結局、大砲はできませんでしたが、こんな代物がのちに世界遺産になるなんて当時の萩の人は誰も思わなかったのではないでしょうか。幕末から明治にかけて、日本人が、このように悪戦苦闘・試行錯誤しながら産業革命を進めていったというストーリー・過程が今回の世界遺産登録の理由だったようです。
そんな貴重なお話をガイドの坪井さんがお話してくださいました。どうぞ今週の番組をごらんあれ!
その帰り道、大板山たたら製鉄遺跡・恵比寿ヶ鼻造船所跡の二か所の世界遺産も行ってきましたよ。
◆見た目のインパクト度とDの個人的感想
萩反射炉 ★★★★☆ (見た目もかっこいい。ガイドに話を聞けばさらに◎)
大板山たたら製鉄遺跡 ★★★☆☆ (山奥でよい場所。ちょっと遠いだけにお出かけ気分に◎)
恵比寿ヶ鼻造船所跡 ★☆☆☆☆ (見た目は残念だが、サイドストーリーを楽しめば◎)
ディレクター 松田大輔